「"When the student is ready, the teacher appears."」
今回は、いきなり英語のタイトルで始まりましたw
この諺というか、言い回しは、日本語が原典ではないからです。ちなみに、わたしも、友人から教えてもらいました。今回、この連載を書こうとあらためて検索しましたが、明確に、どこの、なにが原典ということはわからないようです(もっと調べれば、わかるようにも思いましたが、小一時間ざっと検索したくらいでは & わたしの英語力ではみつけられませんでした…これでは師は現れないかもしれません)
日本語で言うならば、「弟子が準備出来た時に、師は現れる」とでもいうところでしょう
わたしも、仕事柄多くの学生さん、先生方、企業の方にお会いします。今回の話題の「弟子」とは、必ずしも学生さんのことだけをさすわけではありません。わたしも含め、業界経験のあるプロのクリエイターにも言えることでありつつ、学校などで教鞭をとられている先生方においても言えることだと思います。
つまり、「学ぶ」のは、なにも学生の専売特許でなければ、強いられたものでもない、ということですね。
● 学生にとっての「準備」、そして師
まずは、これから述べましょう。
日本にはありがたいことに、義務教育というものがあります。小学校、中学校までは教育を受けさせてもらえるわけです。基礎教育をここで「詰め込まれる」「叩き込まれる」わけです。大半の子供たちは、
進んで学んだもの
ではなく、
与えられて学んだもの
でしょう。ただ、この段階までは、共通・平等の教育量なのでそれでも問題ないと思います(もちろん、厳密にいえば、都道府県、地域、学校、先生単位で異なるとは思います。また、公立と私立でも異なることでしょう)
あくまでも、学ぶ上での基本的な「土壌」をつくっているのですから。また、学校も先生も所与のものとして獲得しに行かなくても、手取り足取り教えてくれる人がそこにいます。9年間も!ですね。(もちろん、いわゆるお受験をして、小学校、中学校の段階から私立に進学し質・量ともに濃い教育をうけている人たちがいることも事実です)
で、次の段階の高校になっても、その延長のような形+多くの周りの友人が進学することもあり、この姿勢はあまりかわることはありません。変えなくてもなんとかなってしまう、というのが実情でしょうか?
ただ、この、小学校、中学校、高校の12年間で、師匠と呼べる人物と出会ってないか?というと、そんなことは無い人もいることでしょう。近所のおじさん、兄弟、部活の先輩など…
たとえば、わたしは、小学校5年の時に、従兄弟とその知人が当時夢中になっていたパソコンというものに出会いました。以前の連載でも書いたかもしれませんが、NECのPC6001という家庭用TVにつないで使うことができる、且つ、10万円を切る画期的なパソコンでした。ありがたいことに、親がそれを買い与えてくれたことで、プログラム(BASICでしたが)の勉強、ゲームのプログラミングを夢中になってやったことを覚えています。
そうなると、わからないこと、壁にすぐぶちあたります。でも、1980年前後の日本には、まだインターネットはありません…また、小学生のわたしにとっては、本も簡単に買うことはできません。毎月、マイコンBASICマガジンの投稿プログラムをみて真似て、参考にするのが関の山でした。
ただ、やはり、「師」は、現れるのですw
当時はパソコンショップというのでしょうか?ゲームや、周辺機器を買いに行くためのお店がありました。ここに出入りするようになると、いろいろと、高校生のお兄さんや大人たちが会話しているわけです。必死に耳をすまして聞くことで学べることもありましたし、それが続いていくと、「なに?」と話しかけてくれる人もでてくるわけです。さすがに子どもなので、何度もいけるわけではありませんでしたが、習い事の帰りに、こっそり立ち寄ったりして、いろいろ話をきいたものです。これも、「準備」といえるかどうかはわかりませんが、
わたしが知りたがっている様子がみてとれた
話してみると、拙いまでも少しは勉強している
次にあうと、少しは成長・変化をしている
ということが見て取れたこと、が、「少しは話してやろう」という気を大人や高校生のお兄さん方におこさせたのかもしれませんw これは、わたしが、すごいとか自慢する話ではなく(全然すごくないのでw 凄ければ、いまもプログラマをやっていたはずですし!)誰しもが、
好きこそものの上手なれ
と、いうように、好んで一生懸命やっていると、環境とご縁があれば、師は現れる可能性があるという一例です。
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